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「バカたれ!」井浦新、憧れの人とのファーストコンタクトは怒声【前編】

日本映画史にアナーキーな軌跡を刻んだ、鬼才・若松孝二監督。没後6年の今年、若松監督が率いた若松プロダクションが再始動! 記念すべき第1弾となる映画『止められるか、俺たちを』(10月13日公開)では、若松監督のもとで映画作りに情熱を傾けた若者たちの青春とキラメキが描かれます。

若松監督を演じたのは、2000年代の“若松映画の顔”ともいえる俳優の井浦新さん。若松映画には5本出演し、若松監督を「恩師であり、映画の父」と慕いますが、その出会いは「バカたれ!」という罵声からのスタートでした。

井浦さんが若松孝二監督という存在を知ったのは、1960、70年代のサブカルチャーに興味を持ち、連合赤軍によるあさま山荘事件の書籍を読み漁っていた20代のころ。「手に入れた週刊誌に、各界の著名人100人があさま山荘事件を語るという企画がありました。99人が事件を起こした連合赤軍を否定する中、一人だけ肯定している人がいました。それが若松孝二監督。“この人誰だ!?”と驚いて、若松監督の映画を観るようになった」と雷に打たれたような衝撃を振り返ります。

その衝撃は序の口。のちに若松監督が『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)』として2008年に公開する映画の製作を知らせる一枚のチラシが、井浦さんを再び痺れさせます。「ポレポレ東中野という映画館に行ったときに、ロビーにあったのが“若松孝二に連合赤軍を撮らせたい”と書かれたカンパを呼びかけるチラシ。それを手にしたときに“これは事件だ!”と思って、いてもたってもいられずに若松プロに電話しました」と衝動に突き動かされて即行動。

その電話口に出た初老の男性こそ、若松監督ご本人だったのです。当時、ARATAという芸名で活動していた井浦さんはそこで自己紹介するも、若松監督のリアクションは「は?アラタ?知らねぇぞ」。しかもキャスティングは締め切っていた時期。しかし井浦さんは「役者ではなく、現場のごみ拾いをしにいくだけでもいい。勉強させてほしい」と食い下がり、さらに若松プロの助監督が俳優・ARATAを知っていたことから、若松監督との初対面が叶いました。その初対面こそが真の衝撃になるとは、当時の井浦さんは知る由もありません。

若松監督から「もしかしたら役があるかもしれないから、ちょっと顔を出してほしい」と言われた日、指定の場所に出向くと、そこは『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)』に出演する俳優全員が揃った顔合わせの場所というサプライズ的状況。「どんな役を与えられるのかも知らず、当時の僕は茶髪の長髪で普段着姿。若松監督から言われたのは“バカたれ!”でした。“こういう時は自分で考えて準備してくるものだ!”と怒鳴られたものの、僕を含めてその場に集まった全員が顔合わせとは知らされておらず、全員が怒られました。全否定からのスタートでした」と常識が通用しない若松スタイルに一瞬にしてノックアウト。

しかしその若松イズムこそ、その後の井浦さんの俳優としてのスタイルを変化させ、プロ意識を高めたものだといえます。「若松監督から学んだのは、“常にスタンバイをしておく”ということ。若松監督に出会ったことで、現場に入って雰囲気を掴みながら芝居を完成させていくというそれまでのスタイルから、本番がいつ始まってもいいように事前に完成させておくというスタイルに変わりました」とその教えが俳優としての基盤に。だから井浦さんは若松監督を「恩師であり、映画の父」とリスペクトするのです。(取材、文:石井隼人、写真:岩間辰徳)

☆後編はこちら

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石井隼人
エンタメライター
イベント取材やインタビュー取材に汗水たらすと同時に、映画系オフィシャルライター&カメラマンとしても暗躍する単なる映画マニア。得意分野はホラーとエログロ。LiLiCoさんから「エロ石井」と命名される。
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